理由


結局、リサイタルの時に言いませんでした。


なぜ演奏するのか。


それは生きているから。
私という媒体を介して生まれた心に残る音楽を伝えたいから。


心に残ると言っても、必ずしも聞いてくださった全員が私の音楽を好きとは限らないのです。


それでいい。



好き嫌いは関係なく、心に残る音はやはり生のその場所、その空気、その瞬間でなければ残らない。
どんなに素晴らしい録音であっても、録画であっても、デジタル化する現代は無機質だ。
生演奏は、奏者の私もお客様も同じ空間で、その場の全てが在ることで感じる人間の感覚が存在する。
人間の感覚の記録としてしか残らない、肌で感じる水もの。
だからこそ、それこそが音の芸術なのだと思う。



会場だからこそ聴きとれる消え入る弱音。〜録音、録画じゃ正直聞こえない?
驚かされるようなfffも必要ない。〜ところが録音の場合、時に不自然なほど通常よりもダイナミクスレンジを必要以上につけなければならない。
私が鍵盤の上で動かない時、会場の皆さんも誰一人として動かない。〜その共有はデジタル記録では不可能な瞬間。


考えるとキリがない。



自分の肉体がなくなった時、その記録はある意味で残るだろう。数%は伝えられるかもしれない。



でもさ、まだ体が動く限りは同じ空間で音を共有する機会を得たい。

私 は 音 を通して 存在 する。


それがいい。



ようやく、自分が自分らしく自然体でいられるようになった気がする。

ピアノ弾きの覚書

ピアニスト 純子マッサーリアの覚書き、ひとりごと、演奏会情報など、気ままにつづります。

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