語ることは
日本に帰ると時間が許す限り国会中継を見る。
国会議員というのはその国の国民の一代表として意見を述べる役割です。
議員議員によって口調も異なれば、使用する言葉も変わりますよね。
その議員の語り方で聞く側の注意力も理解力も変わります。
ある議員の時、会場中が誰一人として野次を飛ばしたりすることはなかった。むしろ、誰一人としてその意見を聞き逃すまい、という空気が国会の中に満ちていた。
次の議員に変わると、画面上に不可抗力で映ってしまう議員の数名は、発言中であっても何やら動く。モゾモゾ動くものもいれば、あちこちをキョロキョロしたり、とにかく落ち着かない。つまり、そのバックグラウンドに発言されている「語り」に対して全神経での興味を引かれていないということ。
その次の議員では、さらにその興味は遠のけた。野次は極端に増え、肝心な発言を聞くのに邪魔である。しまいには目垢を取っている者、耳を掻いている者、ちょっと議員さん、仕事してくださいよ。。。
でもね、聞く側が一方的に問題があるというのでもない。
語ることの難しさ。
語り方次第で人は動く、静止する、感情を動かす。
そう、語る、というのは音楽にも共通します。
発言する際に準備された紙に書かれているのを読むのと、自分の言葉で伝えるべきことを語るのでは説得力が比べ物にならないほど違ってくる。
演奏でもそうですね。楽譜に書かれている音の鍵盤を「押す」ことで出るものと、その楽譜に書かれている音を自分の意志と意図を持って「在る」ものにすること。
言葉もそうですが音も同じ。
形にないものを語りで伝える時、エネルギーが必要になる。
語ることの難しさ。
そして無意識に語る容易さ。
意識すること=言葉を選ぶのと同じ。
選ぶ前に考えよう。
考えることは意識すること、意識することは自分の意志を加えること。
言葉を発するのも、音を発するのも、意思あるものは人を動かす。
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